このサイトは 「本郷美術骨董館」をスポンサーとして、Zenken株式会社が運営しています。
パブロ・ピカソやマルセル・デュシャンと並び、20世紀の現代美術に多大な影響を与えたアーティスト、アンリ・マティス。大胆な色使いが特徴のフォーヴィスム(野獣派)の発案者としても有名です。「色彩の魔術師」との異名もあるアンリ・マティスとは、一体どんな人物だったのでしょうか?
1869年、フランスの裕福な穀物商人の家に生まれたアンリ・マティス。18歳のときに父親の勧めでパリへ行き、法律を学んで法科試験に合格。のち、専門知識を活かす形でしばらくの間は法律事務所の書記として働いていました。
そんな折、1889年にマティスは盲腸炎を発症。その療養中に母親から画材を送られたことをきっかけに、絵画に興味を持つことになったそう。療養中に「楽園のようなものを見た」(本人談)ことで何かに開眼したマティスは、療養後、画家への転身を決意しました。
決意を実現するため、パリにある美術学校「アカデミー・ジュリアン」に入学。官立美術学校の教官だったギュスターヴ・モローから個人指導を受けられるなどの恵まれた境遇も手伝い、マティスはその才能をぐんぐんと伸ばしていきました。
1898年には、のちのマティスの代表作「緑の筋のあるマティス夫人」のモデルともなった、アメリー・パレイルと結婚。2人の子供を儲けるなどの普通の結婚生活を送る一方、ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホ 、ポール・ゴーギャンらの後期印象派の影響を受けた「自由な色彩」による作品を数々生み出していきます。
あるサロンの展示会でマティスは「帽子の女性」と「開いた窓」を出品。これを見たある批評家から「野獣(フォーブ)」との酷評を受け、この酷評をきっかけに、マティスは一層色彩を自由に使う「フォーヴィスム(野獣派)」を確立。その流派の拡大に努めてていきました。
この頃からパブロ・ピカソと出会い、互いに切磋琢磨しながら美術界に貢献。作風は違うものの、お互いを意識し合いながら多くの作品を発表し、当時の美術界を牽引していきました。
晩年、南仏のドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂のデザインを担当しました。この作品がマティス芸術の集大成とも言われています。
1954年11月3日、フランス・ニースに滞在中、心臓発作にて死去。享年84歳でした。
多少なりともマティスの作品に目を通したことがある人なら、この作品の強烈な印象が頭に残っているのではないでしょうか?形ではなく自由な色によって感情を表現したマティスの傑作の一つです。
モデルはマティスの妻、アメリー・パレイル。顔の真ん中に大胆な緑の筋を入れ、その左右に異なる色を配色。モデルの中にある様々な内面を表現した作品と評されています。
マティスの代表作の一つ「ダンス(Ⅰ)」。「ダンス(Ⅱ)」とあわせ、非常によく知られた作品です。手前の二人の手が離れていることに気付きますが、この意味は今もって明確ではありません。「鑑賞者を仲間に入れるため」「決断や覚悟という感情を表現するため」などと言われることもあります。
作品は、マティスの息子が経営する画廊を経てニューヨークにわたり、現在ではニューヨーク近代美術館に所蔵されています。
真に独創的な画家にとって、バラを描くことより難しいことはないものだ。なぜならそのためには、まずこれまでに描かれた全てのバラを忘れる必要があるからだ。
私はものを描かない。私はものとものの違いを描いているだけだ。
ピカソらと並び、日本でも広く知られているアンリ・マティス。愛好会だけではなく一般からも人気ということもあり、専用美術館さえないものの、マティスの多くの作品を所蔵する美術館は日本にいくつかあります。
たとえば、東京中央区にあるアーティゾン美術館。油絵を中心に、マティス作品を40点ほど所蔵しています。
神奈川県箱根のポーラ美術館も、マティスの作品を12点ほど"所蔵しています。なお箱根は、温泉だけではなく、たくさんの美術館・博物館が点在するエリア。絵画・芸術好きの人は、ぜひ訪れておきたいエリアの一つです。
ほかにも、国立近代美術館や大原美術館などに、マティス作品が数点所蔵されているようです。
2021年9月、国立新美術館で「マティス 自由なフォルム」が開催される予定でしたが、新型コロナウィルス感染拡大の影響により、同年8月現在では会期変更となった模様。詳しくは国立新美術館までお問合せください。
現代アートから骨董・古美術までを扱う「本郷美術骨董館」代表。20歳から草間彌生の作品を集めているコレクターでもある。BSフジで放送中の、若手日本アーティストを紹介する番組「ブレイク前夜~次世代の芸術家たち~」制作提供も行っている。お店では鑑定をするかたわら、テレビ・ラジオなどにも出演し、現代アート界を盛り上げている。